さわらぬ髪にたたりなし

 嘘の結婚発表から3年目の9月4日、この日を境に君からのDMは消えた。ここ2年の僕はスキャンダルによってガケを転げ落ちたバンドを引き戻すのに必死だった。

 全国ツアーに僕の溢れる気持ちを詰め込んで、君が観に来てくれることだけを祈ってた。先月、半年続いたツアーもファイナルを迎え、あの時くれたDMから君はこんな僕に理解を示して受け入れてくれたのだと思ってた。

《クビの皮が繋がった》と微かに色がかった世界が見えたんだ。泥沼化したバンドも次元を超えた君との関係も、失うばかりの地獄の生活はもう懲り懲りだ。

 年月は経過してしまったけれど、僕らはこれらを乗り越えたのだと思っていた。最近では以前のように楽しげなDMも多くなっていたし、ウソ婚発表後の君の傷は癒えていたのだと思っていたのにどうしてメールが途絶える?

 こういう態度に出るって事は君は僕に見切りをつけたのか??脈がない?君の愛は冷めたのかい?そんな感情がフツフツと消えなかった。

 

君のいない世界で仕事を過なすだけの日々。

 

「嫌だよ…」そんな中で噛み合わない思いが湧いた。そしてもう一人の声が耳鳴りのように聞こえた。「ダサいんだよ」と頭の中へ伝わる。

 

 その言葉にハッとすると「所詮、他人の軸に合わせて自分の感情を変えている奴らと一緒かよ」と低い声で誰かが語りかけた。

 

 相手の様子を見ながら自分がどうするか、何ができるかを僕は決めているだけなんじゃないか?とふと思った。

 

君はどう生きるか

 

「満足するまで彼女を愛せているか、おれ?」過去に犯した一方通行の香りがよぎる。あの報われない思いを受け入れる勇気がなくて。

 昨日見た新聞にも書いてあっただろ?トラウマは脳内の恐怖細胞が状況や音を感知する細胞と繋がってしまった電気回路で起きている細胞レベルのことだって。

『細胞』だぞ、細胞ごときで人生引っパラレルなよオレ…肝心な時なんだ。

  あの9月4日、僕の突然の結婚報道には君もびっくりしたよね。あの日の君は初めて行くパン屋で絞り込めなくて、あれもこれもと大人買いをしてしまったと話していた。

 

平和な日常

 

 もう君にこれ以上迷惑をかけないようにと嘘の結婚報道をするしかないと僕は思ったんだ。どうせ《一途きの哀しみ》になるんだろうと僕はシナリオを描いていた。

 恋愛なんてそんなものだろ?でも現実は違った。僕は自分で責任を負うつもりだった。けれども結婚発表後に苦しむ君の姿を真に受けて気付かされた。責任を負わせてしまったのだと。

 

君がいつかみた夢の中のはなし

 

 僕が他の女性と結婚したら、君は僕を諦められると話していたあの『夢』の話。

 三次元の世界で出会っていない僕たちは、触れ合う事も関わる事もできない。二次元世界でのやり取りは妄想劇なのか事実劇なのか常に50/50のあやふやの空間に漂っていた。

 僕たちの関係を現実にあるものとする事も、『何も起きていなかったこと』にする事もできるのだということ。

 

そう、あれは君の夢が教えてくれたこと。

 

 そのリトマス試験紙の色具合は『僕ら』にあると僕は思っていた。君が僕との関係に希望が持てなくなったから、僕は希望が持てなくなった。最近になるまで僕はそう思っていた。

 過ぎた過去は変えられない。けれども今から訂正することができるなら『僕ら』に決定権があるのではなく、実は『僕に』最終決定権があったということ。

 

権力行使

 

 君が僕らの二次元空間から突然姿を消したとしても、君から渡されている連絡先に連絡をとって出会うことができるという事が僕には保証されていた。

 世間にはなんと言われるかわからないから怖くて未だに出来ていないが。その一方で僕が僕らの関係を否定する事実を突きつけると、僕らが培った年月は現実から一転し、君の妄想100%と手のひらを返すことになる。

 君の過去は『何もなかったこと』としてきみが君を宥める日々をスタートさせるというなんとも不平等な結末。

 君が僕との過去は『無かったもの』と受入れることに苦戦する日々は言葉が見つからないくらい酷く、僕はそこから目を離さず君を見つめることで罪滅ぼしができるのだと思っていた。

 それでも僕はキミと対等だと思っていたんだから愚かだよな。そんな自分に気がつくのに今の今までかかってしまったのだから… 

 当時の僕は大好きなのに『癒しを失う覚悟』を決めたのだと詩人ぶって生きていただけだった。

 癒しの存在が苦しむ姿を僕は既読がつかないDMで見ていた。僕は君を守ると言いながら守れなかった罪を思い知ればいいと思ってた。

 もう恋愛はしない。人に愛されることもなく愛す事もなく、孤独死する性が僕の一生なのだと美徳化して。

 いつの日か君が他の誰かを好きになって僕のことを忘れる日が来ると、そこから僕への罰が与えられるのだと信じて君を影で見つめていた。

 あれから2年が経つけれど、君からはこんな僕を祟って恨む様子は1ミリも感じられない。それとは裏腹に僕の心の中はあの時の判断を後悔し、自分で自分を嫌悪する後味の悪さでいっぱいさ。

 自分の気持ちすらコントロールできていない僕が、君の気持ちをコントロールしようとしたことへの罪。馬鹿げた発想だった。

 お互いにとって『ベスト』な判断だと思ったけれど、結局僕は自分の弱さを君になすりつけただけだったんだと思い知る。そして君を嘘婚以前より苦しめてしまった僕だけがここに在る。

「相手の感情によって自分の感情をコントロールするのって辛くない?そんなことしてて幸せ?」と君の言葉がよぎる。

 お互いの気持ちが噛み合わなくても、ちゃんとお互いに気持ちを伝え合うことの方が健全だと主張する君に憧れながら、僕は非効率的で非現実的だと思って生きていた。

 相手の気持ちに寄り添えば争うこともなく、嫌われる事だってないのだから。僕が折れれば丸く事が治まる。

 

『愛』ってよくわからないな

 

 愛されていると確認ができるから俺は彼女を愛すのか?愛されているかどうかの不安に襲われているだけの自分は変わってない。

 目立ちたがり屋で注目を浴びて、そこで愛されている感覚を埋めていた自分は乳幼児期の愛着障害を引きずる典型的な大人。この歳になっても恋事情にひとりでつまずいている。

 真夜中に人が集まるファミレスに足が向いていた。ここは夜なのか朝なのか、人によって違う空間。

 なんとなく寝れなくて、ひと恋しくなった僕は、人が作り出す雑音で『ひとりでない僕』を落ち着かせる。

 始発を待つ女子の話し声が後方から聞こえる。「人の愛情によって自分を満たそうとするなんてうまくいかないに決まってるじゃんね。なんか今日の飲み会で美咲先輩の話を聞いててマジで?って思ったんだけど」と我の強そうな声が響く。

 するともうひとりが「とは言ってもさ、実際沼ると、相手から愛されてるかって確認行動しちゃうかも、私も」と明るい声で話している。

 そしてすかさず「マジ、うっざぁ〜」と返す友達も笑いながら続けた、「だから別れるんじゃん?ウザくなって。で、したのしてないのって各々の《尽くし具合》をしょっちゅう喧嘩しながら、どっちかが責めて、どっちかの心が泣いてさ。めっちゃ無駄」と潔い。

 あまり人がいないこの時間帯に聞こえた声が僕の心のドアをノックした。まるで過去から彼女の声が僕を呼び起こしているかのように。

 そして「自分で自分を満たすことができない人は、自分で自分を守る事も難しくなって人を守ることなんてできない」といつかの君の言葉を思い出す。

「自分で自分の気持ちを救ってあげられないと基本的に辛い生き方になってしまうのは目に見えている」と君が僕を見て発した言葉は数年経った今でも響いてしまう。

 

成長してねぇな、いつまで他人の軸で生きてんだ

 

 キミ以上に僕が自分を愛することができたら、君との関係は凄く幸せな関係に変わっていくんだろうな。そしてキミが君自身を愛した上で、僕を愛してくれるとなればそれは最愛。

 失わないと気づけなかったり、気づいていても僕みたいに自分を愛せていないがゆえに恋を見失ってしまうことの常習犯が日常を構成していると思えばきっと今を《楽》に生きられるのかな。エラー&リトライ、それでいいはず。

 

自分はどうしたいのか?

 

 そんな事を思いながら会計を済ませ、街が動き出す前に家路につく。空気は冷え、すでに秋。薄明かりの中ガラリとした大通りを歩いていると自分が潰れてしまいそうだ。

 歩きながら人の声が聴きたくて立ち止まってイヤホンをつける。動画サイトホームのトップに上がっていた動画をタップしてポケットにしまう。

 小さなイヤホンからは軽快な坊さんの声がきこえてきた。そしてゲシュタルトの祈りをこだまさせていた。