サンドイッチ

 錯覚は起こってた。夢と希望と《あるべき姿》の狭間で。その錯覚が吉とでるか凶とでるか、何ひとつ確信がないはずなのに脳内のやり取りは常に『思考の偏り』で左右されていた。

 

考え方の癖

 

 寝癖のように水で簡単になおせるものではない。だから『人』は繊細で『人間関係』は難しいよね。私たちが互いに持っている考え方の癖に私は小休止を挟みたかったんだ。

 知りたかったんだ、君のことを、君の気持ちを。だからふたりのドン底記念日からおよそ2ヶ月間、ほぼ毎日送っていたDMを送るのを辞めた。結果的に小休止は少し伸びてしまったけれどね。

 『2ヶ月』というのは、私が手紙を送って君が読んで、君の気持ちが歌詞になって音色をつけて曲になる。その後に音録りがあって修正をかけて新曲の披露となるまでの最短の時間。

 

すごい労力だったんだね、いつも…

 

   2ヶ月という準備期間は私には十分じゃなかったよ。普段の仕事もこなしながら、自分の気持ちとも向き合いながら創作活動をする君に必要なのは1人で集中できる環境なのだという事を真っ先に感じたよ。

『気持ちは生き物のようなものだから…』 一度土壌から切り離されたレタスが萎れていくように、君も鮮度を保つために必死だったんだと思う。新曲を待つ遠い人のために。

 

伝わらない

 

 きっと翔丸も気持ちをヤキモキさせていたんじゃないかな。2ヶ月前の気持ちが今の気持ちだと割り切れずに。お互いが『宙ぶらりん』だったんだ。合わさることのないふたりの二次元世界で。

 2ヶ月のブランクがある気持ちを《フレッシュ》と呼べるか私も疑問だったから。何が現実で何が真実かわからない君との日常、それでも唯一正直な君でいられたのは曲の中だけのような気がしててね。

 メディアにのる君の姿は信憑性に欠けた世界の主人で、本音なのか建前なのか左右に立ちそびえる壁の間で私の心は揺らされているだけだった。

 スキャンダルの一件があって、君の思い描いていた『自己像』は揺らいだようだった。「俺はこんなもんじゃない」「こんな先の見える人生で終わらない」と君は自分に自分で試練を課しているように私にはみえてた。

 長い間ひとりでもがく君を私は淡々と見ていて、きっと何を言っても頭の中では《自分像》を決めてしまっているんだろうなと思いながら、君が少し歳をとるのを待っていたよ。

 

他人が君の人生に価値をつける環境にいすぎちゃったのかな…

 

 翔丸さ、「君は僕と一緒にいない方が幸せになれる」と考えがちな癖があるって気づいてる?そこを土台に、名声も立場もあの一件で失いかけた君には私が余計に重荷になってしまっているのかなぁと感じたんだ。

 二次元の私は『僕が君の自由を奪ってしまうのは嫌なんだ』、『僕に構わず君は自由でいてくれ』なんて訴えられているようでね。

 自分という存在が私に《迷惑》をかけるという事が頭から離れない君 VS 迷惑はお互いにかけてなんぼの人生という思考の私がリングの上にあがってにらめっこだよ。戦い方を知らないのにバカだよね。でもね、リングを降りて扉を閉めて、気が付くことがあったんだ。

 

私にはそんな優しさは要らない…

 

 人は君のことを《やさしい》というんだ。けれども私の目にはそう映らない。相手のことを思う反面で自分の気持ちにフタをするということ、それは私にとって優しさではなく『合理的潤滑油』にしか感じ取れなくてね。

 確かに人との関わりの中で、その場を円満に進行させるには不可欠な心遣いだと思う。それを理解している上で、私は受取拒否を申し上げます。なぜなら、私は人の行動の自由よりも、《心の声の自由》を重んじて生きている人間でありたいからです。

 強いて言えば、心理的自由度が行動制限をも緩和できる可能性は十分あるとも考えている。ちゃんと『言える』ことで積み上げられる関係性、その中で私は君と歳を重ねていきたいんだ。

 君に出会ってからこれまでを思い出す。お互いに自分の心に正直にいられることを尊重できる関係。私が私の心の自由のために、生き方の選択をする使命が私にあると感じていた。君との関係の中で向き合って君の曲を聴いてきたことを、今も後悔なく生きています。自分の心が決めているんで。

 

君は君の内側にこもったままで何かしたいことがあるのかい?

 

 心の声にフタをされて生かされている子どもたち、大人たちの声を引き出すのが私の日常です。問題解決までには至らなくとも、気持ちを拾うことで目の前の人が伸び伸びと生きようとしてくれるから。そんなお手伝いがきっと私の人生のお仕事なのだと思います。

 ここまでやってこれた秘訣は私が自分の心と向き合うことを決してやめなかったからだと思う。そうじゃないと潰れちゃうよ、私がね。君にも潰れてほしくないんだ。君が二次元にいようが、私にとって大切な人なのだから。

 構わないんだ、人が私のことを理解するもしないもね。心が叫ぶ方に歩いてるというだけだよ。元々、みんな人生を見ている角度が違うから温度差は消えないと思うしね。

『みかた』が違うのかと思う。ほら、君にはどうやら『先が見えている』ようだけれど、そもそも私には自分の人生がどう転がっていくのか全く見えないんだ。

 自分が子どもや孫に恵まれるのか、君が現れるのか否か、ありきたりな孤独死なのか、それすらもわからないから覚悟もできない。それが私の《人生》なのだと思う。

 ひとりで生きている訳でもないし、それぞれが持つ価値観も違うんだから、ちゃんと気持ちを伝え合った上で『最適』な『快適』を擦り合わせていけばいいんじゃないかな。私は君の真似事をしていてそんな事を考えてた。

 私が否定したって、私に否定されたって別にいいじゃん。それでもとんがっていきたいんでしょ?譲れないことってあるし。ただその時々の心が求めているのならね。

 みんなと同じ考えの方が疎外感も感じにくいということはあるよね。人間もサル学である程度説明がつくというのも、集団で生きようとする習性は自分の身を守るのに効率が良かった学習強化の行動だろうから。

 だからと言ってこの人間界でその生き方が全てという訳でもなく、中には合わせようとすることで心が折れていく人もいる。たくさんの人に合わせて生きることが《生きやすい》訳でもないというのは知っていても損はない。

 

違っていてもいい、店先で顔を合わせるんだろうから。

 

 同じ趣味があって同じ考え方ができて同じような生活習慣でいつもふたりが「同じ」でも仲良く生きられてハッピーライフを送れている人たちに出会うと私たちはお互いが『同じ』方がうまくいくのかと錯覚しがちだよね。

 マッチングアプリもその思考の傾向のが強い人たちへ支援かと思うから。そういう形を求める人もいれば、チグハグが面白いと思う人だっている。君と私はマッチングアプリだと出逢わなかったふたりだったかもしれないな。

 君も私もそもそもが違うのだから生きるペースも、ものの考え方も違う。趣味だって得意分野だって違うデコボコ。私はそれでいいと思う。君はどう思っているかわからないけれどね。

 

今の君には何が見えていますか?