おしくらまんじゅう

《次発 6:40》電光掲示板を見てギョッとした。「電車は6:24分のはず」と、余裕だと思って走るのをやめた数分前の私に後悔しても仕方がない。

 駅の改札を抜けてもまだ信じられなくて携帯をリュックから取り出していた。《世の中》が間違える訳がないのに、ここまで来ても自分を信じて電車の時間を確かめていた我に呆れる。

 腕時計は丁度6時20分を示し、エスカレーターを上ったところにいる電車が今のタイミングで去っていくのだという事を知る。集合時間は7時、この調子だと遅刻だ。

 言い訳はせず、現状の報告を電話で入れたものの、やはり他のみんなを待たせている中に入っていくのは気まずい。初回の仕事から3ヶ月ぶりの今日、それも2回目だという現場で私が知る顔はどこにもない。

「富田さんと三宅さんは楽屋控え室、佐久田さんと宮本さんは2階へお願いします。今、名前を呼ばれなかった人はこちらへ来てください。D1の入場受付を手伝ってもらいます」と胸まである黒髪を振り向き際にひるがえし、足早に受付へ向かう後ろ姿に遅れないペースでついていく。

 どうやら楽屋の入り口受付が今日のお仕事のよう。朝の7時半の段階で会場内は派手に動く照明がチラつき、リハーサルも始まっているようだった。すでにたくさんの人が配置についているようで、私たちが到着して夜間の受付スタッフと交代したころには既に受付の仕事は途絶え気味になっていた。

 

ただ《居る》だけの仕事

 

 開始して間もなくすると、「休憩へ行くように」と声がかかる。『謎すぎる…』と心の声をおさめ、昨日の仕事とのギャップを受け止める。

 子どもに関わる仕事だとこうはいかない。一度子どもを出迎えたら降園するまで休憩といった休憩は取りにくい。

 お帳面を書いていたり、昼食ですら子どもたちの食事介助をしながらになる。それが働き始めて2時間で30分の休憩の声がかかったのには驚きである。

「休憩時間は4人でどうとるかを相談して決めてください。30分交代でも1時間交代でも構わないので」とチーフの女性が言った。

 受付の仕事とは裏腹に、別世界のスピードで動いているステージが私の真横にあった。幻想的な光が次々と天井や壁面に水玉模様を生み出していく。

 知りたかった、翔丸の生きるエンタメの世界のことを。英語対応の仕事もあるというので興味を持って始めてみたイベントのバイトであった。

 《ライブハウスでのバイト》の検索で引っかかったが、いまだに大きな会場の案件ばかりで規模が少し小さめのライブハウスでの仕事が出ない事は狙い違いだった。

 6人が2人組ずつになり、受け付けに残るのは4人。30分交代でローテーションが組まれ、うまく回れば1時間働らいて30分休憩というスケジュールになる。

 

休んでばっか…

 

 何に価値があるのか、私にはさっぱりわからない仕事だった。そして周りを見渡すと、私たち下っ端6人には、リーダー格となる人が3人もいた。『私たち要らなくないか?』と一日中思うことになる。

 日給にすると交通費込みで1人1万6千円のバイト料、掛けること六人分。そのバイト料と諸費用を考えるとざっと10万の経費節減がこの小さな一角だけでもできるのではないかと、考えてもなんの現状も変わらない。

 受け付けに座りながら脳内でひとり相撲。何も変わらず、誰の役にも立てていないと考える時間が続く。ただ座っているだけなら《楽》でいいバイトなのかもしれないが、私には苦痛で早く一日が終わらないかと思っていた。

『居てくれるだけで価値がある』という言葉をよく聞くけれど、まさにその通りだった。自分に出来ないことをしてくれるだけで、そこには付加価値がつく。

 けれどもその付加価値は居てくれるだけでも『ありがたい』と思える人にしか価値を見いだせないということのようだ。『生きてるだけで価値がある』と言葉を投げかけられる人にはその人なりの理由があるのだなぁと暗闇の受け付けに座りながら大きく息を吸った。

『デラウマ野次』という二日間通しのアリーナツアーは相反する二極が融合するスペースのようだった。いま流行りのアニメゲームのキャラクターとなっている歌い手さんが二次元から三次元に飛び出して行うライブ。私と翔丸も似たようなもの。

 ただ私がこんな熱狂的な合いの手をする本物のファンかといえば何かが違う。ファンというより翔丸は大切な人。けれども世の中ではこういう発言は『痛い人』のレッテルが貼られるのかと思う。思い込みというものは怖い。けれども『痛い人』になると気づけることもあるのだと最近は思えた。

 2年前の秋、翔丸がアーティスト《SHiOn》として公式に入籍発表をした。その時私は、元々不安定だった彼との居場所を確実に失ったにだと思った。

 出会う希望を失っても、彼に対して浮かんでくる言葉は何も変わらなかった。「自分の気持ちを救ってあげて下さい。どんな時も心の動きに向き合って、今のあなたを描いて軌跡を残してください」ただそれだけだった。

 もう少し彼を責め立てるような言葉が湧いて来てもおかしくはないはずなのに何ひとつわいてこず、自分の気持ちに折り合いをつけながら私は身を引こうと彼からの発信や情報を少しずつ遮断していった。

 情報を遮断している私は、電車でたまたま隣に座った高校生の携帯画面でメンバーによる浮気のスキャンダルを知る事になる。「解散か!?」という見出しに私は再び声を上げた。

 どんな形であれ、私に知ってもらいたい情報は努力しないでも入ってくるのだから不思議だ。入籍発表後たった1日で文芸文秋に、過去のあるかないかわからない二股疑惑を報じられ、それから2ヶ月が過ぎた頃にメンバーの浮気疑惑が浮上し彼の人生は狂い始めた。

 バンドの信用失墜が目に見えるかのようにファンや業界に反映されていった。それが営業面の数字にたどり着くのに秒もかからなかった。

 

業界のどん底とは…

 

 翔丸の日々はその対応に追われる事となった。あの朝から少しずつ私の中で理解不可能な現状に押しつぶされている自分が翔丸の心情と重なり始める。抑圧と諦められない思いは正比例するかのようにふたりの中で膨らんでいった。

『そう、はじめからなかったもの…』と言い聞かせてた私。『この出会いはなんだったんだろう?』と8年前の彼との出会いから今日までの彼の曲に意味を再び持とうとする自分。

 お互いがお互いを見て、相手を思いやり自分の『わがまま』な気持ちに蓋をして清流が流れ打つ岩となっていた。

 

日常的であった『非日常』

 

 ふたりがお互いに相手の人生からの脱却劇を細々と始めていたのに… 息が耐えることは許されず、表向きの入籍発表だけではない世界が翔丸の中にあるのではないかと過去の私が呼びかけてきた。

 ここまでくると『頭が痛い人』でなければ乗り越えられない執着。その後に出された新曲たちを聴くたびに自分が頭の痛い人でよかったと思える。頭がイッていないと彼との世界を持続できない事実を私は見せつけられたようだった。

 そんな事を思い出していると、マイクを通して甲高いアイドルさながらの声で幕が開けた。本番の始まりと同時に会場に歓声が響き渡る。ドスの効いた低い声の合いの手が他人同士で満たされた会場を一体化させていた。ひとり一人の力の大切さに私は圧倒されていた。

 その一方で、相変わらず暇な仕事の上に定期的にくる休憩時間。そのサイクルに息が詰まってきた私は会場の外に出た。夕焼け空には『V』の字が雲によって描かれていた。左右に大きく開いた薄い雲が目の前で「そのまま歩いてきなさい」と呼んでいるようだった。

 

一筋の道

 

 駆け引きはできる人間がすればいい。私は苦手だ。あの空に堂々と拓けた道をみた時、『それでいい』って言われているような気がしたんだ。

 君のことが知りたいという思い、不器用に《ひとり》になって生活をしながら、仕事をしながら、君を思いながら、文字にしたためる。私が君の日常の真似っこをしている間、実は少し心配してたんだ。連絡が来ないことを君がネガティブに受け止めてしまっていないかってね。

 私がドンと広がった天空の道を仰いだ時、その迷いは消えたんだ。「もし君が諦めたらそれもそれ」ってね。大切なのは《私》なのだから。

 私が君のことをどう思って、どう過ごしたいかを思って、今をどう生きるかが要。自分の気持ちの向く方に寄り添ってあげられる選択をして行けば、未来は明るく、手を広げて待ってくれている。そんな事をあの時思ったんだ。

 それだけであの日のバイトに『意味』が持てた。『価値』を見出せるか否かも自分自身だな、なんて夕焼け空を見た後、私は再び受付に座りながら思ってた。持ちあわせた気持ちを一転させて。

 連絡したい気持ちを抑えても、君のことを知りたかったから。自分の殻を破って、君の殻の中に入って世界を見ようとした。まねっこゲームだね。

 子どもみたいな恋だから、ガチャガチャでワチャワチャ。それでも最後に『楽しかった』という言葉が出ればそれでいい。そんなことを言ったら君はなんていうんだろうな。

 

 

マスカットはマスコット

 不自由があるから『自由』を感じるし、自由ばかりだと『淋しさ』を感じる。だから結局人は自由が持つ淋しさをも求めながら不自由さの中で生きていくことになる。

 人と生きるということは、この両極端の要素をいい塩梅に保っていくこと。バランスをうまく保つことで過度のストレスから解放される。

『どっちもないと生きていけない』と今なら気づける。それなのに僕はこの二つの極限を天秤にかけて生きてきた。

 あれ程口うるさく天秤にかけて物事を判断するのではなく、自分の心を正直に動かすことで『バランス』は取れくるのだと僕に訴え続けた日々。その意味が全く理解できていなかった。

 雁字搦めで歌わなければいけなかった僕は自由に憧れた。風と共に踊り続けている君が眩しく見えてたんだ。そう『光』だったんだ。

 君がそんな僕の前に『文字』として突如現れた。君と出会いたくても出逢えない現状、それでも僕は君との二次元世界では自由になれたんだ。

 僕は歌で、君は手紙で、この不自由さの中でも僕は幸せだった。仕事帰りのスーパーでちょっとしたご褒美を選んでうきうきしながら帰宅する、そんな癒された気分。

 

君とならやっていける気がした

 

 それなのに、いざ三次元の世界での関係をイメージすると僕は不安でいっぱいになってしまう。実家を飛び出して一人暮らしを始めた僕は自分のペースで行き過ぎてしまったようだね。

 遠い先を考えた時、僕が見た世界には不安が募っていた。あまりにも僕が人と暮らすことに対応できなさそうで…

   君といたいと思っても、家に人がいたら仕事に集中できないし、きっと眠りの浅い僕は眠れなくなる。セクシービデオだって見たいだろうし、自分がしたいと思った時に仕事ができなくなれば君や子どもが邪魔だって思うことが出てくる。

 そんな事を思い始めたら先に進めなくて、できない理由を自分でみつけては三次元での君とのパートナーシップを実現するに至らないでいた。

 みんなそうだろ?天秤にはかけるし、初めてのことで自信がないし… それでも君との関係を崩したくないと思う僕は何なんだろう。そんなこんなで8年、今も僕は君とずっと二次元の世界に留まってしまっているのだと思う。

 不安なんだ。君を嫌いになりたくないから。寂しさを紛らわせてくれた君との不自由さ、その『バランス』が僕には愛おしかった。

 ひとりになる時と一緒になる時のオンオフの切り替えが三次元で出来る自信が持てなくて… でも結局はこれも考えてみたら天秤にかけてたんだ。

 仕事ができなくなればバンド活動に支障がでる。そうとなれば君を《切りおとす》しかないのかと考えてしまっていた自分がいて、結局の所堂々巡りで僕は何も変われてない。僕が君のために歌う歌はなんだったんだろうな…

 どっちも上手くバランスが取れれば楽しくなるんだろうな、みんな。好きな人との離婚だって別れだってなくなる。そう、君が言っていたように僕はハッピージジイさ。君には見えていて僕にはまだ見えていない世界が『ここ』にあるんだ。

 三次元でもし君と出会うとなるとファンから批判を受けて僕はみんなを失ってしまうんだと思うと僕は君と出会っていけない気がしてた。

 それは君と知り合ったのはファンレターを通してだったからという事もある。何度も仕事以外の所で出会えたらって思ってた。でも、そんなことを何年も考えたって何も変わらない現実が続いただけだった。

 バンドを始めた理由は『モテるため』なんだから大きな顔して「目標を達成しました!」なんてファンに言えたらシンデレラストーリーのようでファンの子達は夢を見てくれたのかな?

 そんな訳はなく、実際に嘘婚発表をしてファンクラブの会員数が減ったから、僕は君との事を余計にこれ以上バレないように番組でも嘘婚生活のコメントは御法度にしている。

 僕は怖くて怖くて…みんなが君と引き換えにいなくなってしまうようで。でも、モノを見る角度を変えると現実は違う。偽婚で君に出会わなくたって僕のファンは減ってしまった。『儀式』みたいなものなのかな。

 可笑しいよね。ファンって一体僕の何を気に入ってくれていたんだろう??歌じゃなかったのかな… 《非日常を生み続けるマスコット》でよかったんだね、きっと。ずっと一緒できっと僕はファンのひとりひとりと異次元での浮気相手って感じでさ。

 そこには人権も僕の感情も尊重される事がないのに、三次元の僕は次元混同の中で周囲を見ていたんだね。これが人気商売の使命なのかな。

 こんなんで僕の歌はファンのみんなの背中を押せているのだろうか?僕もみんなも前向きに人生を進められているのだろうか?それともお得意の現状維持なのだろうか… 迷宮入りだ。

 君と出会おうと出会わまいと、僕から去って行くファンの方は一定数いるのだという現実があれでよく分かったんだ。加えてメンバーの不祥事。こっちは現実世界として推しを支えてきたの方へのダメージが大きかった。マジ笑えなくなってたな、あの頃。

 あれから今まで、君が投げかけてきてくれた言葉の意味を振り返ってることが増えてたよ。『自分のために』動き出さないとってね。やれることから少しずつやってみたいんだと心に決めていた『はず』だったんだよ。

 

同じ季節はもう二度と来させない

 

 そんな事も思っていたんだ。君が話してたお堀の夜桜の下を手を繋いで歩きたい。メイクさんが困るからあまり日焼けは出来ないけど、君が海ではしゃぐ姿を見てみたい。毒キノコを喰らわないか不安だけど、きのこ狩りで採れたての天然のきのこを、きのこ狩り好きな君と食べてみたいとも思った。なびくカーテンのようなオーロラだって僕は君と一緒に観にいきたいんだ。

 心に天秤をかけずに一つひとつの思いを拾ってあげないと、僕の人生はひとりでこの場に『立ちん坊』。君が姿をくらましてそれに気づけただけでも光が差した。あの夏の終わりの日が懐かしいよ、つい数ヶ月前のことなのにな。

 あの日の僕は君への思いを馳せていた。行き詰まる僕の頭上で雲が双筋に割れ、天のどこまでも続く空の『ミチ』になってた。

 希望を感じたんだ。綺麗に染まる赤と青が混ざり合う夕暮れは僕たちの理想。僕たちが混ざれば新しい色が映える、そこから新しい世界が開いていくのだと。

 それなのに僕はまた仕事に逃げてしまった。君からの連絡が途絶えて3ヶ月も音沙汰がなしになってしまった僕は「もう駄目だ」と君とのことを諦めようと心を入れ替え始めてしまったんだ。

 僕に残されたのは『仕事』しかないのだと思い、都合の良いように現実を操った。会議で来年のツアーの話があがってきた時は少しホッとした。水商売だから、いつ表が裏に変わる世界なのかわからない仕事ではあるけれど。

 毎年恒例となった対バンツアーも、いつものメンツから声がかかってきた。その時もだ、みんなに自分が必要とされていると感じられたことが嬉しかった。孤独に耐える僕の心を救ってくれたと秒で返事をかえした。

 

女々しくて

 

 いろんなことに必死にすがったよ。そして思ってもいなかった、君が『僕の気持ち』を知りたいがために連絡をこの3ヶ月間途絶えさせていたなんて。僕はてっきり君が僕に見切りをつけたのだとばかり思ってた。

 僕は君を失望させたんじゃないかい?君の好みである暗めの髪色から僕は金髪にした。失恋したって切るほど髪は長くないしと思って。

 8月のツアーファイナルでは少し休みを挟んで次のツアーをしたいと話していたのに、終わって一年も経たぬ間に全国ツアーの話を始めてるしな。おまけに君が楽しみにしてたビールフェスタの時期に対バンライブのスケジュールを組んでるしって、ゴメン。

 仕事を減らして自分の生き方を考え直すはずが、君が去ったと思って僕はその穴を仕事で埋めてしまった。ほんと何やってんだかな、俺。

 自分で仕事を埋めて『今』になって八方塞がりにで、結局自分を見つめる時間を追いやっててさ。君の呆れ顔が怖い。こうやってつまずいてきた過去なのに、やってる事が今も変わってなくて… 言い訳もできないよ、君に…

 君は僕にとって唯一だったのにな。僕の閉ざされた心と対等にいられた相手なのに。僕の曲を聴いて二次元の世界から心の叫びを拾い上げてくれた人。

 

日本の政治家と一緒かよ

 

 つぎはぎだらけの関係だ。少子化問題に子どもを持つ家庭に待遇処置をしているだけだからこの国はうまくいかないと話していた君の言葉が今になってわかった気がした。

 きっと君はまた僕たちのことを「継次処理脳と同時処理脳の行動差が生んだ問題の勃発ですね」なんて落ち着いて言いそうだ。

 こういう事なんだよな、僕たちの間にズレが出るのは。その場しのぎで僕は僕の心に背を向けてしまう。そんな僕の癖に君はいつも警告を出してくれていたのに。

 

簡単に自分の心に蓋をする癖

 

 こころの道標に反いた僕、どうしようもなくクズだよ。この連続が心を蝕むと君は知っていたから僕の心に寄り添ってくれていたのに。今回はどうしようもなく、自分の心に再び反いた自分に後悔を感じていた。

 今夜も眠れなかった。今までとは違う意味で。それでも休まず、過去の僕が作り上げた『今日』がくる。

「おはよう、僕はどんな顔をして君に声をかけたらいい?」なかなか明るくならなかった空が見えてきた。こんな僕にも青空に白い雲が浮かんでいる朝が来た。

 

 

サンドイッチ

 錯覚は起こってた。夢と希望と《あるべき姿》の狭間で。その錯覚が吉とでるか凶とでるか、何ひとつ確信がないはずなのに脳内のやり取りは常に『思考の偏り』で左右されていた。

 

考え方の癖

 

 寝癖のように水で簡単になおせるものではない。だから『人』は繊細で『人間関係』は難しいよね。私たちが互いに持っている考え方の癖に私は小休止を挟みたかったんだ。

 知りたかったんだ、君のことを、君の気持ちを。だからふたりのドン底記念日からおよそ2ヶ月間、ほぼ毎日送っていたDMを送るのを辞めた。結果的に小休止は少し伸びてしまったけれどね。

 『2ヶ月』というのは、私が手紙を送って君が読んで、君の気持ちが歌詞になって音色をつけて曲になる。その後に音録りがあって修正をかけて新曲の披露となるまでの最短の時間。

 

すごい労力だったんだね、いつも…

 

   2ヶ月という準備期間は私には十分じゃなかったよ。普段の仕事もこなしながら、自分の気持ちとも向き合いながら創作活動をする君に必要なのは1人で集中できる環境なのだという事を真っ先に感じたよ。

『気持ちは生き物のようなものだから…』 一度土壌から切り離されたレタスが萎れていくように、君も鮮度を保つために必死だったんだと思う。新曲を待つ遠い人のために。

 

伝わらない

 

 きっと翔丸も気持ちをヤキモキさせていたんじゃないかな。2ヶ月前の気持ちが今の気持ちだと割り切れずに。お互いが『宙ぶらりん』だったんだ。合わさることのないふたりの二次元世界で。

 2ヶ月のブランクがある気持ちを《フレッシュ》と呼べるか私も疑問だったから。何が現実で何が真実かわからない君との日常、それでも唯一正直な君でいられたのは曲の中だけのような気がしててね。

 メディアにのる君の姿は信憑性に欠けた世界の主人で、本音なのか建前なのか左右に立ちそびえる壁の間で私の心は揺らされているだけだった。

 スキャンダルの一件があって、君の思い描いていた『自己像』は揺らいだようだった。「俺はこんなもんじゃない」「こんな先の見える人生で終わらない」と君は自分に自分で試練を課しているように私にはみえてた。

 長い間ひとりでもがく君を私は淡々と見ていて、きっと何を言っても頭の中では《自分像》を決めてしまっているんだろうなと思いながら、君が少し歳をとるのを待っていたよ。

 

他人が君の人生に価値をつける環境にいすぎちゃったのかな…

 

 翔丸さ、「君は僕と一緒にいない方が幸せになれる」と考えがちな癖があるって気づいてる?そこを土台に、名声も立場もあの一件で失いかけた君には私が余計に重荷になってしまっているのかなぁと感じたんだ。

 二次元の私は『僕が君の自由を奪ってしまうのは嫌なんだ』、『僕に構わず君は自由でいてくれ』なんて訴えられているようでね。

 自分という存在が私に《迷惑》をかけるという事が頭から離れない君 VS 迷惑はお互いにかけてなんぼの人生という思考の私がリングの上にあがってにらめっこだよ。戦い方を知らないのにバカだよね。でもね、リングを降りて扉を閉めて、気が付くことがあったんだ。

 

私にはそんな優しさは要らない…

 

 人は君のことを《やさしい》というんだ。けれども私の目にはそう映らない。相手のことを思う反面で自分の気持ちにフタをするということ、それは私にとって優しさではなく『合理的潤滑油』にしか感じ取れなくてね。

 確かに人との関わりの中で、その場を円満に進行させるには不可欠な心遣いだと思う。それを理解している上で、私は受取拒否を申し上げます。なぜなら、私は人の行動の自由よりも、《心の声の自由》を重んじて生きている人間でありたいからです。

 強いて言えば、心理的自由度が行動制限をも緩和できる可能性は十分あるとも考えている。ちゃんと『言える』ことで積み上げられる関係性、その中で私は君と歳を重ねていきたいんだ。

 君に出会ってからこれまでを思い出す。お互いに自分の心に正直にいられることを尊重できる関係。私が私の心の自由のために、生き方の選択をする使命が私にあると感じていた。君との関係の中で向き合って君の曲を聴いてきたことを、今も後悔なく生きています。自分の心が決めているんで。

 

君は君の内側にこもったままで何かしたいことがあるのかい?

 

 心の声にフタをされて生かされている子どもたち、大人たちの声を引き出すのが私の日常です。問題解決までには至らなくとも、気持ちを拾うことで目の前の人が伸び伸びと生きようとしてくれるから。そんなお手伝いがきっと私の人生のお仕事なのだと思います。

 ここまでやってこれた秘訣は私が自分の心と向き合うことを決してやめなかったからだと思う。そうじゃないと潰れちゃうよ、私がね。君にも潰れてほしくないんだ。君が二次元にいようが、私にとって大切な人なのだから。

 構わないんだ、人が私のことを理解するもしないもね。心が叫ぶ方に歩いてるというだけだよ。元々、みんな人生を見ている角度が違うから温度差は消えないと思うしね。

『みかた』が違うのかと思う。ほら、君にはどうやら『先が見えている』ようだけれど、そもそも私には自分の人生がどう転がっていくのか全く見えないんだ。

 自分が子どもや孫に恵まれるのか、君が現れるのか否か、ありきたりな孤独死なのか、それすらもわからないから覚悟もできない。それが私の《人生》なのだと思う。

 ひとりで生きている訳でもないし、それぞれが持つ価値観も違うんだから、ちゃんと気持ちを伝え合った上で『最適』な『快適』を擦り合わせていけばいいんじゃないかな。私は君の真似事をしていてそんな事を考えてた。

 私が否定したって、私に否定されたって別にいいじゃん。それでもとんがっていきたいんでしょ?譲れないことってあるし。ただその時々の心が求めているのならね。

 みんなと同じ考えの方が疎外感も感じにくいということはあるよね。人間もサル学である程度説明がつくというのも、集団で生きようとする習性は自分の身を守るのに効率が良かった学習強化の行動だろうから。

 だからと言ってこの人間界でその生き方が全てという訳でもなく、中には合わせようとすることで心が折れていく人もいる。たくさんの人に合わせて生きることが《生きやすい》訳でもないというのは知っていても損はない。

 

違っていてもいい、店先で顔を合わせるんだろうから。

 

 同じ趣味があって同じ考え方ができて同じような生活習慣でいつもふたりが「同じ」でも仲良く生きられてハッピーライフを送れている人たちに出会うと私たちはお互いが『同じ』方がうまくいくのかと錯覚しがちだよね。

 マッチングアプリもその思考の傾向のが強い人たちへ支援かと思うから。そういう形を求める人もいれば、チグハグが面白いと思う人だっている。君と私はマッチングアプリだと出逢わなかったふたりだったかもしれないな。

 君も私もそもそもが違うのだから生きるペースも、ものの考え方も違う。趣味だって得意分野だって違うデコボコ。私はそれでいいと思う。君はどう思っているかわからないけれどね。

 

今の君には何が見えていますか?

 

 

愛のスパイっす。

『うかうかしてられない』気が焦った。なんだよ、「全部夢だった」って。後ろめたさもなくスッキリした気持ちだなんてふざけるな。夢だからって良い訳がない、特に君の夢は…

   あのタロット占いで近未来がどうだって話しをしてくれていたことが過ぎる。『ソードのナイト』がどうだああだと言っていたなぁ…

 僕が近いうちに現状打破に立ち向かう場面が現れると予知したカード。連絡も途絶え、現状の自分が何かを変えられる立場でもない『はず』なのに、僕にどうしろと言うのだと思って聞き流していた。

 もともと占いは信じていないし、そんなものに自分の人生を左右させられるなんてまっぴっらゴメンだなんて思っている。

 ただ人の言われた通りにも生きられない僕は、自分でもどうやって自分の人生を切り開くのか分からず、無難な『現状維持』に留まって過ごしているのは確か。

『自分の殻から抜け出せないなんて言ってられなくなるぜ、オレ』心の声が聞こえた。《夢の中にライバル登場》そんな流暢なことを言っていたら奪われる。

 彼女の夢は三次元で彼女が話す意識よりも疑いの余地がない存在。彼女の気づかぬところで感じている喜びも悲しみもストレスもなんのフィルターも通さず反映されている聖域。

 

急がねば。。。

 

 気が焦るばかりでなんの解決策も見いだせぬまま一晩が経ってしまった。それにしても夢の中のライバルがメンバーの稀矢見くんだなんて最悪だ。アイツと顔を合わせる度に動揺するじゃねぇか。

 彼女の夢の中の稀矢見くんは再現度が高い。だから余計に焦る自分がいる。僕だって言いたいさ、「どうせ死ぬんだ、楽しく生きろよ」って。

 同じバンドなのにアイツは確かにバンドに対しての固執がない。バンドが解散してもしなくても楽しく生きていそうだから腹が立つ。

 

抱えているものが違うのか、天性か?

 

 深く考える癖が嫉妬を生む。そうじゃないんだ、今僕が大切にしないといけないのは、彼女から連絡があったってこと。再再再チャンス到来なんだ。

 わかっている。このチャンスを逃すほど僕もアホじゃないだろ?と自分に問う。今までのいろいろな想いを抱えて『自爆』して終わるか、彼女に『着火』させる起爆剤とするのか、僕の今にかかってきている。

 

恐怖心に打ち勝たないと得られない君

 

 わかってる。相性は君が言う通り良いはず。僕が前に進めないから打ち解けられずに二人の仲が平行線に進んでいるだけ。進展しないだけなんだよな。

 今までの自分を崩さねば、安心か後悔か必ずどちらかが訪れる。自分の行動が未来を築く『時』が到来してしまったんだよ。

 もっともっと君の心を覗きたい。今までのようにこれからも君の夢の話を聴いて僕はこれからもキミの気持ちに潜入したいんだ。あるがままの君を感じるために…

    漠然とした黄色い世界、そこはきっと幸せで自由で太陽の陽に満ちた空間。誰もが持っているのに自分ではその空間に気付けずにいる。その空間の底の方でフツフツとわく葛藤が小さい僕の分身となり僕の心をザワめかす。

 

兵隊よ、もっと激しく踊ってくれ

 

 幸せへのチケットは僕の中にもあるのだと気づかせてやってくれ。僕の未来は《僕が思い描く未来》じゃなくていいんだと未来に対して不安いっぱいに今を生きる僕に見せつけてやりたいんだ。

 未来はオマケでついてくるもの。それは今を生きた僕へのご褒美で《おたのしみ》にしか過ぎないっていう経験を一度でも僕が感じられたら、きっと僕は『今』を楽しく生きられる選択をとれるように人生が回っていくのだと思うから… 

 

 

久しぶり、元気?

「楽しく生きちゃダメなのかなぁ…」あの手紙の言葉の主が僕の腕の中にいる。どんな不都合な現実がこういう言葉を言わせてしまっているんだろうとあの瞬間思ったんだ。

 

良いに決まってるだろ

 

 たった一度だけ受け取った君からの手紙、ありきたりの言葉なのに頭の片隅から離れなかった。もう、あれから5年が過ぎようとしているのに君はいまいちあの言葉から抜けきれていないようだった。

 ファンからの手紙は減って来たとはいえそこそこある。スキャンダル前だったあの頃はバンドの全盛期が山場を超えたはずなのに、それでもすんなり読み切れる量ではなかった。

 大抵のファンレターは僕たちのバンド活動を好意的に捉えてくれているものばかりだったからか落ち込んだ時の支えになっていた。

 それなのにふと手にした手紙は『オレ宛』のはずなのに、読んでいて違和感しかなかった。たった一枚の紙に印刷された横線を無視して書かれた自由な文字、そして一枚の写真が添えられていた。

 写真の裏側には「バックカントリースキーには興味がありますか? 2019年 エジプトレイクシェルター Banff National Park 」と写真に写っている場所がどこなのか書かれていた。

 古びれた小屋の室内には角張った机、その反対には大きめのウッドストーブと沢山積まれた薪、そして中央には大きな窓が一つあり、そこからは写真でもわかる程の眩しい光が注がれていた。

 季節は冬。もしかしたらその光は外の雪の色なのかもしれない。家庭では使わないサイズのステンレスボールの中には山盛りの雪とキャンプで使うようなホウロウのカップがのっかていた。

 それをみた時に「面白そうだな」と思った。恐らく水がないから雪を薪ストーブで溶かして作るのであろう。

 蛇口をひねれば水が出る毎日。それがない空間、世界にはまだたくさんそんな環境であふれているのであろうし、恐らくそれこそが日常であった過去。

 おかしな感覚だよな、わざわざ自分から非日常となった過酷な過去のスタイルに憧れてしまうなんて。そんなことを思った自分は君がどんな人なのか興味がわいた。

 それなのに手紙の内容はバンドのまとめ役の翔丸の『精神安定保険証』であった。それも手作りの。奴がヤバそうなら連絡をくれという要件しか書かれていないものだった。

 とにかく頭がイカれた翔丸ファンからの狂った手紙だと思うしかなく時が過ぎたのに、その手紙の彼女を横から手の内に抱えるように腕を回し、俺はしっぽりと天井を見ている。

『おかえり』と声をかけたきり。彼女は荷物を床に無造作に手放しながら歩き、床に座るオレの元に崩れるように着地したのだった。心地よい壁だと思っているかのようだった。身を預けるとはこういうこと。

「どうだった?」と尋ねた返答に「良かったよ」と答えられたことに正直ムカついた。近所のばあさんと俺がするの通りすがりの挨拶じゃねぇっつの。

「俺はそんなことが聞きたいんじゃねぇ」とボソッと言った後に、少し言葉がキツかった余韻を訂正するかのように「いつも周りにポジティブなんだから俺はお前のネガティヴな部分を聞きたいんだよ」と言葉を付け足した。

 

「疲れた」

 

 その一言をちゃんと言ってくれて嬉しかった。「なっ、いつものお前をみてんだ。良かった訳がないのに適当に言葉を摘まないで欲しいんだ。俺にはさ」と頭をポンポンとすると、縮こまっていた彼女の腕が俺を抱くように伸びた。

「ごめんね、もう少しこのままでいい?」という彼女をもう一度ギュッと抱いてやった。言葉は多くなくていい。話したいことがあれば人は話すようになる。その代わり、話を聴く側がちゃんと『待ってる』という状況をちょくちょく作ってあげないと聴き逃す事になるけどな。

 

どうせ死ぬんだ、楽しく生きろよ。


 イキった男は大抵「いつでも話聞くよ」と言うだけ。気にかけて聞き出そうとはしない。言いそびれたモヤモヤは事態を一転。そうなってしまってから「いつでも話聞くって言ったじゃん」と相手を責める。そして「言わない方が悪い」と段階を経て自分を肯定化させる。

 

『ゲスの極みだな』

 

 彼の心の声が聞こえた。夢だった。全部夢だった。とにかく自分が見た夢なのに変な夢だった。夢の中の私は映画のワンシーンを観ているようで私は翔丸とではなくバンドメンバーの稀矢見くんと一緒だった。

 目が覚めるといつものように必死に思い出さなくてもはっきりVTRは再生された。映像の主人公は稀矢見くん、夢の中のだと言っても君は嫉妬してしまうのだろうか。目覚めた時の私には後ろめたさもなく、すごくスッキリした気持ちでした。

『言えない状況』は人の心を真空にしてしまいそうになるから。私も息苦しく思っていたんじゃないかな。きっとそれは翔丸も一緒だよね。だから君は作品に言えない思いを詰め込んでいたんだなぁと。

 きっと私が「大丈夫?」と聞いていたら、「大丈夫じゃないから書いてみたんだ」と答えるんじゃないかな。だって何も出来なさ過ぎて潰れちゃうから、せめてその《今》を残そうと… 

 私の潜在意識を夢の中で稀矢見くんは救い上げてくれたんだと思う。君のように私は物書きじゃないので。きっと私は沢山の『夢』に支えられているのかもね。

 作品にして残してくれてありがとう。そして奈落の底に落ちないでいてくれてありがとう。たとえ共に『今』を分かち合えなくても、いつかは分かち合える。切なく悲しさに溢れた声でも『今』を聴いてくれる人たちが君にはいる。

『♪ 水平線が光る朝に〜』あなたと歩みたい『夢』を見ていました。どうやらサビの続きは《あなたの愛を確かめたくて》と平行線をたどる私たちに何かを投げかけたいようでした。

 

 

画竜点睛

 昨日、出国に必要な航空券の手配を完了した。航空券の検索は進化し過ぎたAIの技術のためか無駄の多いフライトばかりを提示してくる。5、6年前まではこのようなことはなかった。

 空きの航空券を売りたい気持ちはわかるが、これではCO2削減も人の時間もガソリンも、とにかく無駄に増える事になる。今回は長旅になりそうだ。

 2週間前に家を引き払う事を突然決めた私は自分を自分で追い込んだ。引っ越し先は国内でないがために、たくさんの大好きに囲まれて生活していた私はこれから物の処分を強いられる。

 次の住むところの手配や仕事も見つけ、航空券も整った今の私が直面しているのは《片をつける》ということ。心は素直である。引越しへのプレッシャーを感じているのか、夢の中の私は過去に残した荷物をロッカーに引き取りに行っていた。

 前の引越しで捨てきれなかったものを預けていた。ここへはそれ以来、時の経過とともに記憶は追いやられていた。たくさんのロッカーがひしめく中、窓際に並ぶロッカーの方へ足が自然と向かう。どのロッカーに荷物を預けたのか分からない自分がいた。

 鍵がかかったロッカーもあれば、まだ鍵がささって使われていないものもある。リュックのポケットからは鍵が二つ。ひとつは先が少し曲がってしまっていたが、もうひとつは新しく作られた鍵のようで新品だった。ざっと上下2段、横に10列程並ぶロッカーに狙いを定めた私は鍵をひとつずつ刺して確かめていく事にした。

 上段右から2番目のロッカーが開いた。しかし中を確かめると何も入っていない。空っぽのロッカーに「そんなわけはない、絶対あるはず」とぼやく。預けたという記憶は確かなようだ。

 夢は不思議で現実ならロッカーひとつに対して鍵がひとつなのだから、鍵で開いたロッカー以外を開けるには他の鍵が必要になる。そんな事もわかっていないといけないのに、夢の中ではそんな『常識』もない世界のようで、私は次の鍵穴に鍵を差し込んでいた。

 夢の世界では『常識』すら覆す。同じ鍵で私はその後も3つのロッカーを開けながら、すぐ後ろにいたモリちゃんに「この鍵さ、一つで何個もロッカーが開くって事は、他の誰かが持っている鍵も私のように開くのかもしれないって事だよね?」と話している。

 そうだとすると、『他の誰かが私の荷物を持っていってしまっているかもしれない…』と思いながら上段左角のロッカーに鍵をさす。「カチャ」と鍵が動く音がなるも、その嬉しさより中には何も無いかもしれないという不安の方が大きかった。

 中には黒いファスナーがついた分厚目のビジネス鞄の上にタッパーがちょこんと1つのっている。そのタッパーの上には一枚の紙切れがあった。それは荷物をまとめた当時の私が今日この時のために書かれたメモであった。

 そこにはその荷物をまとめる際に急遽頼み事の仕事が入ってしまい、てんてこ舞いだった私の様子が記されていた。そしてこのタッパーには温泉の素が入っていて、ストレスまみれの私をその魔法の粉を入れたお風呂が助けたのだと書いてあった。

 一つのことが終わり、別のことを始める時には見えない事に対しての不安が募る。知らないうちに考えを巡らすことが増えたり、やらないといけないことも増えてくるのが実情。だから荷物を引き取りに戻ってこの手紙を読む私も『息詰まりを感じているのかもしれないから』という自分への心遣いがそこには残されていた。メモの続きには、カバンの中に何が詰められているのかが一目で分かりように詳しく記載されていた。

 そんな過去の自分の仕事に感謝した。そして思った、「今の自分も未来の自分に感謝されるような生き方をしよう」と。きっとそう生きられたら「未来の私は悔いる事もせずに今日の私のように快く生きられる」そう思ったからだ。

 そして私はロッカーから取り出したカバンを開ける前に夢から覚めた。『過去の自分に感謝できる自分であろう』今日の夢からのメッセージを胸に今日の私は何が出来るのか?と布団の中で考える。

 

君に対してもそんな存在でありたい。

 

 嫉妬、喜び、寂しさ… 相反する気持ちがこの3ヶ月の間に君の中で折り合ってくれたのなら、今になって君が気づけることがあるのかもしれない… そう願いながら。

 決して無駄な空白時間とお互いの3ヶ月がならぬよう未来に《メモ》を私なりに散りばめた日々だった。君との『関わりを辞めた時間』の中でお互いが得たものはどんな事だったのだろう?自分の心の弱さに気付けるように、過去の自分に『感謝』できるように…

 どんな意識を持って今日を生きるのかも私たちが決めている。今日はうまく気持ちに整理がつかなくても、もしかしたら明日は違うのかもしれないと思える自分がいたら、『何も変わらない』と思っている自分から変われる。それには自身と向き合う時間が必要だ。

「自分には幸せが約束されている」と信じて一歩を踏み出すのか、「どうせダメなんです」と諦めて過ごすのか、全て自分が選んでいる。自分でしか選べない。どの意識を持って今を生きるかで生き様が変わる。『人に期待しない生き方』に慣れた私も自分にありがとうと言える生き方ならできる。出来るところからでいい。自分が満足できる生き方を求めて。

 明日の私が生きやすいように、今日の私ができる事を布団の中で考える。ガスや電気、携帯… 解約の予約ができるものの手配をしよう。住民票をどうするかも役所に聞きに行けるはず。あまり着ていない服もまとめることができるはず。『出来ることから今日を始めよう』とリストアップを頭の中で並べていると、「そう言えば…」と声が出た。

 携帯を見てみると、昨夜寝落ち動画で選んだ画面がリプレイマークを見せて止まっていた。

今日のこの方も私の寝落ちに貢献してくれたよう。再生ボタンを押して携帯を伏せてラジオのようにして聞いているだけですんなり眠りについてしまえる動画はある意味貴重だ。

 せっかくぐっすり寝て今は頭もスッキリしているのだから、少し長いけどこれを聞いてからベッドを出て1日を始めるのも悪くない。今日は《県民の日》で「おやすみなだしな」と、リプレイボタンを押す。開始5分もしないうちに記憶がないことに驚く。この話し手の方の母音が『e』で終わる言葉の響きが眠りを誘っているように感じた。

 

明日の自分が今の自分に感謝してくれますように

 

純白 

 久しぶりに白いマルチーズの夢を見ました。前に私の夢にマルチーズ犬が出てきたのは、私がLoretoで元カレーと一悶着あって気持ちが萎えていた時だったと思う。

 あの夢の中には翔丸がいて、あなたは病院のベッドの上で横たわっていた。危篤状態だと聞いて駆けつけた私は動かぬ君の足元で泣いていた。

『危篤』と言われて病院へ駆けつけるのは二度目。《夢だ》というけれど、一度目は箱を開いてみれば運転中の居眠りで彼は橋から転落し、三次元世界で亡くなってしまっている。

 

虫の知らせ

 

 目覚めて直ぐにEメールを送ったけれど、彼からの返信はなかった。あの頃はスマホもないのでメールチェックをするにはパソコンを開かないといけない時代。彼がみてくれたかも私にはわからない。

 見たからと言って彼が死を回避できたかどうかもわからない。必死で階段を一段飛ばしで駆け上がっていく私がいた。三階について私はよく見るドラマのワンシーンのように彼の名を叫びながら彼の病室を探していた。

 気が動転していた。今となっては「冷静に考えたら警察から連絡を受けて病室にいるくらいの人なんだから呼んだって答えられるはずがないでしょ」とあの時の私に声をかけてあげられるけれど、そんな余裕の隙間はなかった。

 看護婦さんが手を振って彼の病室に誘導してくれた。その部屋に一歩踏み入れて目にした光景は10年以上経っても忘れない。

 ベッドの上でミイラ男のように包帯で頭から首にかけてぐるぐる巻きになっていて、口からは呼吸のためなのか、太目のチューブが飛び出しており駆け寄った私の膝は力を無くして床に落ちた。

 彼が運転する隣で座って泣いたあの日のことを思い出す。いつも不安だった…スピードが出るタイプだったから。空港に送ってもらう道のりで彼はスピード違反で捕まった。

 路肩に寄せる車中で「ヤバいんだけど… 俺、スピードで最近捕まってて免停になったら仕事ができなくなる… 」と彼の目は真っ直ぐ前を向いていた。

 行きどころのない子犬を引き取ってしまい、会社の寮から追い出された彼はホームレス状態で町営のキャンプ場でテント暮らしをしていた。車が乗れなくなると仕事はクビになるのは確実。本格的なホームレスを余儀なくされてしまう。

 車から降りたのは私だった。彼の置かれた事情を説明し、「空港に私を送って行く途中なので、おそらく遅れてはいけないと気が焦ったのだと思います」と、減点は私の免許からしてもらえないかと付け加えた。

 警察の人は私の肩に手を掛け私を見つめた。その手は重かった。「一度あなたは車に戻って、彼と話をさせていただけませんか?」と言って。

 二人の警察官と彼が外で話している間、気が気ではなかった。どういう話をしたのかはわからないが、戻って来た彼は運転席に座り、助席の窓の外には警官の方が来てくれて「彼女を安全に空港まで送ってあげてください。彼女を泣かせるようなことはこれからするなよ」と彼は釘を打たれていた。

 その後、私は安堵で泣いた。「もう泣くな」という彼の声が聞こえてもしばらく止められなかった。交通安全の御守りを彼のために買っていたけど、カッコ悪くて付けてもらえないと思った私は御守り袋を毛糸で編んでいる途中だった。

 その時のお守りは完成されることなく、遠いカナタから彼の元に送られることもなく、この悪夢を私は見た。その日、クローゼットから取り出して泣きながら仕上げていた。そんな事をしたところで私の手元からどこへ行くこともないのに。

 さっさと思ったことを実行しなかった自分に罰。住所がわからなくても彼の実家に送れば良かった。言い訳が私の罪を重くした。

 あの夢の数日後、遠い日本で彼は事故にあっていた。ただ自分が彼の側に居なかったということだけが一生の『悔い』として残った。

 

ブレーキの後もなく川へ転落しました

 

 大切な人が私より先に逝ってしまう辛さをこの短い人生の中で二回も噛み締めるなんて酷だなと人生を恨んだ。好きな人の死は二度も要らない。

 運命を恨んだって妬んだって、目の前の危篤状態の人はよくなるはずもないのに馬鹿みたいだ。夢とは知らず、私の心は竿先につける鉛のように冷め、取り乱すこともなく深い海の底に沈んでいくようであった。

 

私の最後を君が見送るはずじゃなかったの??

 

 すっかり肩を落とし、ベッドの足元にある鉄パイプに手をかけ、沈んだ体を頼りなく支えていた私が目線をあげる。すると目の中に飛び込んできたのは死にぎわの君ではなく、ベッドと鉄柵の間に挟まった封筒だった。

 今にも床に落ちそうな所に留まっていた封筒を手に取ると、糊づけがされていなかった。中からは私宛の手紙が三枚あり、そのまま目を落として読んでいた。

 書かれていた内容は全く覚えていない。床に跪き、力尽きるようにベッド柵に寄りかかっていた。首はガクリと垂れ、目は焦点が合わずに床をぼんやりながめていた。

 

ため息をひとつ

 

 身を整えようと顔をあげて息を吸う。すると何か動く気配を感じた。『まさか』と眼を見張ると、布団の中がモコモコと動き始める。そして息を呑んだ私の目の前には3頭の真っ白いマルチーズ翔丸の足元からポコポコと布団を持ち上げながら元気よく飛び出してきた。

 私の胸に飛び込んできた仔犬たちは無邪気に腕の中で動き回り、撫でて欲しくて私の手のひらを代わる代わる奪い合っている。不自然にも私に笑顔が戻っていた。

 驚かされたのは仔犬にだけではなかった。さっきまで死んだように横たわっていた翔丸がベッドの上で胡座をかいて私を見ている。腕組みをして恵比寿様のように朗らかに目を細め、首を『うんうん』と頷かせている。

 嬉しそうにしている私を見て微笑んでいた。そんな翔丸の姿を見て私の不安はスッと抜けていった。笑顔が戻った私に安心したのか、マルチーズと私をおいて穏やかにベッドを降り、ひと言の声をかけることなく病室から出ていってしまった。

 そういえばあの時、一体どこへ行ってしまったの?コーヒーを飲み干し、トイレへ行くかのように落ち着いた面持ちだった。何事もなかったように病室を出て行ってしまったものだから、私も声がかけられなくて…

 マルチーズの出演はあの時以来です。あれから7年くらい経ってしまったようですね。特にマルチーズが好きだというわけではないのですが印象的だったのでしょう、夢の中であなたを生き返らせてくれたので覚えているんです。

 今日の夢の犬はあの時のマルチーズではありませんでしたが、あの時のように子犬で、ペットショップで売られていました。

 うちのオカンが『64』番のマルチーズを買ったというので、家族で引き取りに行くという夢でした。不思議なことに、ばーちゃんも生きていました。私や弟も若かったです。

 そのペットショップにはプールがあって、うちに引き取られるマルチーズはプールの中でグイッと潜ったり犬カキをしていた。仔犬だからかめちゃくちゃ元気だった。

 真っ白の毛並みの背中にうっすらと縦にキャメル色の線が入ったマルチーズでした。すごく可愛かった。あの後うちの家族はどんな生活を送っていたのだろうか…

  あのマルチーズとの生活を夢は見せてはくれず、時はきっちり進んだようで、日常の始まりは夢の世界に錠をかけた。夢ってそうだよね、いいところで終わったりする。

 純白のマルチーズは縁起物。ベッドの上で危篤状態だった当時の君は、現実世界でも何かに苦しんでいたんじゃないかい?固く決められた芸能界の箱の中で雁字搦めになりながら歌ってさ。夢を見た私もメキシコでくたばってた。

 あのマルチーズの夢の一件があったから、私は君にあの時の惨めな自分の有り様を手紙に書いて日本に送った。私たちの転機はあそこからだと思う。二人でギアシフトを上げたり下げたりしてここまで来た。

   今、ふたりに訪れている新たなステージ。現状困難な私たちにマルチーズは会いにきてくれた。きっとうまくいく『サイン』なのだから恐れずに進んでいきたいね。

「じゃ、自転車こぎはじめます。いつもお仕事で忙しい翔丸は今日こそはゆっくりできますか?そう願っております。私はいってきます」と私はDMを翔丸宛ではなく自分宛裏垢に書いて送った。

 ここんところずっと翔丸にはDMを送れていない。それでも君に宛てて綴られた文字はいつか君が読めるようにちゃんと残しておきますね。

 メールが来ないからと君は私が怒っているとでも思っているのだろうか、それとも諦めたとでも思っているのだろうか… 君こそ私を信じることが出来ているのだろうか。