おしくらまんじゅう

《次発 6:40》電光掲示板を見てギョッとした。「電車は6:24分のはず」と、余裕だと思って走るのをやめた数分前の私に後悔しても仕方がない。

 駅の改札を抜けてもまだ信じられなくて携帯をリュックから取り出していた。《世の中》が間違える訳がないのに、ここまで来ても自分を信じて電車の時間を確かめていた我に呆れる。

 腕時計は丁度6時20分を示し、エスカレーターを上ったところにいる電車が今のタイミングで去っていくのだという事を知る。集合時間は7時、この調子だと遅刻だ。

 言い訳はせず、現状の報告を電話で入れたものの、やはり他のみんなを待たせている中に入っていくのは気まずい。初回の仕事から3ヶ月ぶりの今日、それも2回目だという現場で私が知る顔はどこにもない。

「富田さんと三宅さんは楽屋控え室、佐久田さんと宮本さんは2階へお願いします。今、名前を呼ばれなかった人はこちらへ来てください。D1の入場受付を手伝ってもらいます」と胸まである黒髪を振り向き際にひるがえし、足早に受付へ向かう後ろ姿に遅れないペースでついていく。

 どうやら楽屋の入り口受付が今日のお仕事のよう。朝の7時半の段階で会場内は派手に動く照明がチラつき、リハーサルも始まっているようだった。すでにたくさんの人が配置についているようで、私たちが到着して夜間の受付スタッフと交代したころには既に受付の仕事は途絶え気味になっていた。

 

ただ《居る》だけの仕事

 

 開始して間もなくすると、「休憩へ行くように」と声がかかる。『謎すぎる…』と心の声をおさめ、昨日の仕事とのギャップを受け止める。

 子どもに関わる仕事だとこうはいかない。一度子どもを出迎えたら降園するまで休憩といった休憩は取りにくい。

 お帳面を書いていたり、昼食ですら子どもたちの食事介助をしながらになる。それが働き始めて2時間で30分の休憩の声がかかったのには驚きである。

「休憩時間は4人でどうとるかを相談して決めてください。30分交代でも1時間交代でも構わないので」とチーフの女性が言った。

 受付の仕事とは裏腹に、別世界のスピードで動いているステージが私の真横にあった。幻想的な光が次々と天井や壁面に水玉模様を生み出していく。

 知りたかった、翔丸の生きるエンタメの世界のことを。英語対応の仕事もあるというので興味を持って始めてみたイベントのバイトであった。

 《ライブハウスでのバイト》の検索で引っかかったが、いまだに大きな会場の案件ばかりで規模が少し小さめのライブハウスでの仕事が出ない事は狙い違いだった。

 6人が2人組ずつになり、受け付けに残るのは4人。30分交代でローテーションが組まれ、うまく回れば1時間働らいて30分休憩というスケジュールになる。

 

休んでばっか…

 

 何に価値があるのか、私にはさっぱりわからない仕事だった。そして周りを見渡すと、私たち下っ端6人には、リーダー格となる人が3人もいた。『私たち要らなくないか?』と一日中思うことになる。

 日給にすると交通費込みで1人1万6千円のバイト料、掛けること六人分。そのバイト料と諸費用を考えるとざっと10万の経費節減がこの小さな一角だけでもできるのではないかと、考えてもなんの現状も変わらない。

 受け付けに座りながら脳内でひとり相撲。何も変わらず、誰の役にも立てていないと考える時間が続く。ただ座っているだけなら《楽》でいいバイトなのかもしれないが、私には苦痛で早く一日が終わらないかと思っていた。

『居てくれるだけで価値がある』という言葉をよく聞くけれど、まさにその通りだった。自分に出来ないことをしてくれるだけで、そこには付加価値がつく。

 けれどもその付加価値は居てくれるだけでも『ありがたい』と思える人にしか価値を見いだせないということのようだ。『生きてるだけで価値がある』と言葉を投げかけられる人にはその人なりの理由があるのだなぁと暗闇の受け付けに座りながら大きく息を吸った。

『デラウマ野次』という二日間通しのアリーナツアーは相反する二極が融合するスペースのようだった。いま流行りのアニメゲームのキャラクターとなっている歌い手さんが二次元から三次元に飛び出して行うライブ。私と翔丸も似たようなもの。

 ただ私がこんな熱狂的な合いの手をする本物のファンかといえば何かが違う。ファンというより翔丸は大切な人。けれども世の中ではこういう発言は『痛い人』のレッテルが貼られるのかと思う。思い込みというものは怖い。けれども『痛い人』になると気づけることもあるのだと最近は思えた。

 2年前の秋、翔丸がアーティスト《SHiOn》として公式に入籍発表をした。その時私は、元々不安定だった彼との居場所を確実に失ったにだと思った。

 出会う希望を失っても、彼に対して浮かんでくる言葉は何も変わらなかった。「自分の気持ちを救ってあげて下さい。どんな時も心の動きに向き合って、今のあなたを描いて軌跡を残してください」ただそれだけだった。

 もう少し彼を責め立てるような言葉が湧いて来てもおかしくはないはずなのに何ひとつわいてこず、自分の気持ちに折り合いをつけながら私は身を引こうと彼からの発信や情報を少しずつ遮断していった。

 情報を遮断している私は、電車でたまたま隣に座った高校生の携帯画面でメンバーによる浮気のスキャンダルを知る事になる。「解散か!?」という見出しに私は再び声を上げた。

 どんな形であれ、私に知ってもらいたい情報は努力しないでも入ってくるのだから不思議だ。入籍発表後たった1日で文芸文秋に、過去のあるかないかわからない二股疑惑を報じられ、それから2ヶ月が過ぎた頃にメンバーの浮気疑惑が浮上し彼の人生は狂い始めた。

 バンドの信用失墜が目に見えるかのようにファンや業界に反映されていった。それが営業面の数字にたどり着くのに秒もかからなかった。

 

業界のどん底とは…

 

 翔丸の日々はその対応に追われる事となった。あの朝から少しずつ私の中で理解不可能な現状に押しつぶされている自分が翔丸の心情と重なり始める。抑圧と諦められない思いは正比例するかのようにふたりの中で膨らんでいった。

『そう、はじめからなかったもの…』と言い聞かせてた私。『この出会いはなんだったんだろう?』と8年前の彼との出会いから今日までの彼の曲に意味を再び持とうとする自分。

 お互いがお互いを見て、相手を思いやり自分の『わがまま』な気持ちに蓋をして清流が流れ打つ岩となっていた。

 

日常的であった『非日常』

 

 ふたりがお互いに相手の人生からの脱却劇を細々と始めていたのに… 息が耐えることは許されず、表向きの入籍発表だけではない世界が翔丸の中にあるのではないかと過去の私が呼びかけてきた。

 ここまでくると『頭が痛い人』でなければ乗り越えられない執着。その後に出された新曲たちを聴くたびに自分が頭の痛い人でよかったと思える。頭がイッていないと彼との世界を持続できない事実を私は見せつけられたようだった。

 そんな事を思い出していると、マイクを通して甲高いアイドルさながらの声で幕が開けた。本番の始まりと同時に会場に歓声が響き渡る。ドスの効いた低い声の合いの手が他人同士で満たされた会場を一体化させていた。ひとり一人の力の大切さに私は圧倒されていた。

 その一方で、相変わらず暇な仕事の上に定期的にくる休憩時間。そのサイクルに息が詰まってきた私は会場の外に出た。夕焼け空には『V』の字が雲によって描かれていた。左右に大きく開いた薄い雲が目の前で「そのまま歩いてきなさい」と呼んでいるようだった。

 

一筋の道

 

 駆け引きはできる人間がすればいい。私は苦手だ。あの空に堂々と拓けた道をみた時、『それでいい』って言われているような気がしたんだ。

 君のことが知りたいという思い、不器用に《ひとり》になって生活をしながら、仕事をしながら、君を思いながら、文字にしたためる。私が君の日常の真似っこをしている間、実は少し心配してたんだ。連絡が来ないことを君がネガティブに受け止めてしまっていないかってね。

 私がドンと広がった天空の道を仰いだ時、その迷いは消えたんだ。「もし君が諦めたらそれもそれ」ってね。大切なのは《私》なのだから。

 私が君のことをどう思って、どう過ごしたいかを思って、今をどう生きるかが要。自分の気持ちの向く方に寄り添ってあげられる選択をして行けば、未来は明るく、手を広げて待ってくれている。そんな事をあの時思ったんだ。

 それだけであの日のバイトに『意味』が持てた。『価値』を見出せるか否かも自分自身だな、なんて夕焼け空を見た後、私は再び受付に座りながら思ってた。持ちあわせた気持ちを一転させて。

 連絡したい気持ちを抑えても、君のことを知りたかったから。自分の殻を破って、君の殻の中に入って世界を見ようとした。まねっこゲームだね。

 子どもみたいな恋だから、ガチャガチャでワチャワチャ。それでも最後に『楽しかった』という言葉が出ればそれでいい。そんなことを言ったら君はなんていうんだろうな。